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第3章 社会主義との闘い

今では「社会主義がだめだ」というのは常識だが、つい20年ほど前までは、世界の人口の半分近くを社会主義国が占め、日本でも「社会党」が野党第一党だった。「資本主義から社会主義に移行するのが歴史の必然だ」と信じる人がかなりいて、朝日新聞などは中国の文化大革命を賞賛していた。
 
特に知識人の世界では、こういう「進歩派」が多数を占めていた。それは欧米でも同じで、共産党の勢力はそれほど大きくなかったが、社会民主主義は広く支持を受けていた。1930年代には、資本主義の世界が大恐慌に沈む一方、ロシアは順調に成長を続けているように見えた。だから今ではとても想像がつかないが、そのころ社会主義を批判するのは非常に勇気のいることだった。
 
戦前の日本では、共産党が軍国主義に抵抗する勢力として(ごく少数ではあるが)最後まで残ったため、戦後その権威は高かった。ハイエクどころか、ワルラスもメンガーも「近代経済学」という特殊な学派として扱われ、私の世代まで、国立大学の多くではマルクス経済学が教えられていた。中でもハイエクやフリードマンは、資本主義を擁護する「右派」の思想とみられていた。
 
知識人が左翼的なのは、世界的な傾向である。これはおそらく彼らがある程度の合理的な知識をもち、自然科学によって自然が操作可能になったように、社会科学によって社会を合理的に操作できると思いがちなところからくるバイアスだろう。だから1930年代から社会主義を批判してきたハイエクの闘いは、今では想像もできないほど困難で孤独なものだった。

社会主義計算論争
メンガーの価値論や制度論を継承したハイエクにとって、イギリス労働党のように社会全体を集権的に「計画」しようとするのは、それが「意図せざる結果」をまねくことを知らない素朴な発想だと思われた。すでにミーゼスが1920年に、計画経済の欠陥を明らかにした論文を書いていたので、ハイエクはそれを英訳した論文を中心として『集権的計画経済』というタイトルの論文集を1935年に出した。これが「社会主義計算論争」として知られる、20世紀でもっとも有名な経済論争の始まりである。
 
ミーゼスの主張は、きわめて単純なものだ。市場経済では、貨幣によって人々の経済活動が媒介され、価格によって商品の価値が表示される。人々は複雑な計算をしなくても、ある商品の価格を見て、それが自分の主観的な評価(限界効用)より高いか安いかを考え、安いと思えば買えばよい。そうした需要と供給の相互作用によって商品の価値が決まり、企業は利潤(あるいは損失)を上げる。
 
ある企業が利潤を上げているということは、その商品の価格(社会的評価)がそれを生産するコスト(限界費用)より高いということだから、その企業が効率的に生産していることを示す。この場合には、他の企業が参入して商品の供給が増え、価格が下がる。逆に損失を出しているときは、その企業の商品の価値はコスト以下なので、生産をやめたほうがよい。それによって供給が減れば、価格が上がる。このように価格を通じて消費者の評価が伝えられることで、企業は正しい価格を計算なしに知ることができる。
 
このメカニズムがが機能するためには、財産権によって商品とその所有者が1対1に対応していることが不可欠である。人は、その労働の対価や投資の成果が100%自分のものになるから創意工夫をするのであり、働いても働かなくても同じ社会、あるいは投資の成果が国に奪われるような社会では、だれも働かなくなるだろう。
 
ところが社会主義経済には価格も財産権もないから、商品の価値を知る尺度がない。たとえば消費者にアンケートをとって集計し、そこから計算して価格をつける、といった作業を何百万種類もある商品すべてについて行なうには、莫大な計算が必要である。しかも、こういう計算がもし可能だとしても、それは消費財の価格を決めるだけで、その原料となる中間財や資本財の価格を決める基準はない。したがって財産権を否定する社会主義経済で、正しい資源配分を中央当局の計画で決めることは不可能である。
 
これに対して、ポーランドの経済学者オスカー・ランゲは『社会主義の経済理論』を発表して反論した。価格には、二つの機能がある。取引における交換比率としての機能と、その商品の価値(影の価格)を示す機能だ。後者は企業内の部門間でつけられる「移転価格」のようなもので、実際に貨幣による取引が行なわれる必要はなく、あるプロジェクトに帰着される価値がそのコストより高いか低いかをみればよい。
 
したがって中央当局は、自分で計算する必要はなく、ワルラスの「せり人」のように価格を提示して各企業の需要と供給を集計し、それが一致するまで価格を動かせばよい。貨幣も財産権もなくても、こうした「分権的社会主義」が可能であることは、新古典派経済学によって証明されている。
 
この反論は、理論的には正しい。1940年代には、影の価格を実際に計算する線形計画という手法が開発され、戦時経済における物流や生産の管理に実際に使われた。こうした手法は、オペレーションズ・リサーチ(OR)と呼ばれ、現在でも経営学の一分野になっている。ORは「作戦研究」という名の示すとおり、もとは戦争の補給を効率的に行なうシステムとして開発された。こうした手法は、戦争のように目的関数がはっきり決まっていて変化しないときには有効だ。
 
ある作戦に、武器と石油と食料という3つの資源が必要だとしよう。いくら武器がたくさんあっても、石油がなかったら動けないし、食料がなくなったら兵士が飢え死にしてしまう。こういうときの基本的な考え方は、なるべくバランスよく予算を割り当て、ボトルネックをなくすことだ。
 
かりにすべての予算を武器に割り当てたとすると、石油も食料もないので戦力はゼロだ。そこで石油と食料に1単位ずつ予算を配分すると、戦力は1単位分増えるが、武器が余ってしまう。そこで余った武器予算をまた他の資源に割り当てると戦力が増える・・・というようにシミュレーションを繰り返し、戦力が増えなくなったところでやめると、最適な資源配分が求められる。資源の数が増えると、この計算は非常に複雑になるので、コンピュータが必要だ。
 
米軍は、こういう手法で補給を手厚く行なったが、日本軍は補給を考えないで、すべての予算を武器につぎ込んだため、第二次大戦の戦死者230万人の半分近くが餓死という悲惨な結果になった。

分権的社会主義の挫折
このように分権的社会主義を実現することが理論的に可能であるばかりでなく、その計算を実際に行なう手法も発見されたことで、社会主義計算論争は社会主義側の勝利に終わったと思われた。1950年代には、アロウ=ドブリューらによって新古典派理論の一般均衡が存在することが数学的に証明された。

線形計画で求めた解が新古典派経済学の一般均衡と一致することはフォン・ノイマンによって証明されていたので、これによって社会全体を巨大な線形計画問題として定義すれば、必ず答は求められることが証明された。この時期が新古典派の黄金時代で、すべての経済問題がコンピュータで機械的に解けるのは時間の問題だと思われた。
 
1960年代には、ハンガリーの経済学者コルナイが、新古典派理論を応用して実際に分権的社会主義を運営するメカニズムを設計し、それを18部門からなる生産計画で実験した。まず中央の計画当局から各部門に生産量を割り当て、各部門がそれを生産するのに必要な「影の価格」を申告する。この申告をみて中央は効率の悪い(限界生産量の少ない)部門への割り当てを減らし、効率のよい部門に割り当てる・・・というやりとりを繰り返し、それ以上生産量が上がらないところで計画を決めるのだ。
 
これは線形計画に似た方法で、目的関数が決まれば、手続きはコンピュータのプログラムとして書ける。しかしプログラミングを行なう作業は膨大で、200人もの人々が計画に参加した。プログラムが大きすぎて当時のコンピュータでは処理できないため、大幅に簡略化したプログラムが使われたが、作業は難航した。5年間にわたって試行錯誤が行なわれたが、結果的にはこの実験は失敗に終わった。
 
最大の原因は、計算を行なう前提となる目的関数が決められなかったことだ。戦争や企業のプロジェクトなら、司令官や経営者が決めればよいが、経済全体の目的は誰が決めればよいのだろうか。政治家は、政策に優先順位をつけることをきらい、あれもこれもやろうとする。特に、その目的を数値化することを好まない。
 
こうした問題を無視して、とりあえず目標を決めたとしても、今度は計算に必要なデータを集めるのが大変だ。官僚は自分たちの仕事の「台所」を見せたくないので、仕事の目標を数値的に明示するのをいやがる。正しいデータを提供するインセンティブがないので、データに信頼性がない。結果的には、実際に計算を行なう以前の段階で計画が破綻してしまった。その原因を、コルナイ[2005]は次のように総括している。

この問題を今の頭で考え直してみると、ハイエクの議論にたどりつく。すべての知識すべての情報を、単一のセンター、あるいはセンターとそれを支えるサブ・センターに集めることは不可能だ。知識は分権化される必要がある。情報を所有する者が自分のために利用することで、情報の効率的な完全利用が実現する。したがって、分権化された情報には、営業の自由と私的所有が付随していなければならない。(158ページ)
計画の主体として、個人を超えた社会とか国家というものを想定するとき、最大の問題は、国家の目的関数は具体的にどうなっているのかということだ。個人の目的は明確だが、それを国家としてどう集計するのか。あるいは国家が適当な目的関数を設定したとして、それが国民全体の福祉を最大化することはどうやって保証されるのか。
 
企業のプロジェクトでは、与えられた目的を最適化することだけを考え、あとはできた商品が市場で売れるかどうかをみて目的関数を変更すればよいが、計画経済では最初の目的を決めるところで挫折してしまう。消費者の目的を、たとえばアンケートで集計するとしても、その好みは多様で、刻々と変化している。それをどこかの時点で収集したとしても、それをどう「社会的目的関数」として集計するかという問題が残る。
 
現実の社会主義国では、組織的な計画手法はまったく使われていなかった。中央の官僚が適当に目標を設定して各工場に割り当て、それがうまく行かないと場当たり的に割り当てを変更する。ソ連の計画経済を運営していたゴスプランの官僚が「膨大な計画をどうやって実行しているのか」ときかれて「電話」と答えた、という小話がある。
 
結果的には、コルナイの実験は分権的社会主義が現実には不可能であることを証明し、市場経済がいかに膨大な「計算」を自律分散的に行なっているかを明らかにした。30年代には論争に負けたようにみえたハイエクやミーゼスの理論が正しいことが、実験によって証明されたのだ。

隷従への道
こうした論争を総括し、社会主義の危険を説いたのが、ハイエクの『隷従の道』である。これは最初は、イギリス国内向けの啓蒙書だったが、アメリカでベストセラーになり、ハイエクを一躍有名にしたが、他方では彼に保守反動の代表選手というイメージを植えつけた。のちにハイエクは「私は、この本で経済学者の信用を失いました。私の学問的影響力が下がっただけでなく、ほとんどの学科が私を嫌悪するようになったのです」と語っている。
 
今でも、自由主義を「市場原理主義」などと呼んで反発する人々は後を絶たない。その代表が、ベストセラー『国家の品格』を書いた藤原正彦氏である。彼は次のように書く。

アメリカの経済がうまくいかなくなってきた1970年代から、ハイエクやフリードマンといった人々がケインズを批判し、再び古典派経済学を持ち出しました。もし経済がうまくいかなければ、どこかに規制が入っていて自由競争が損なわれているからだ、とまでいう理論です。時代錯誤とも言えるこの理論は、新古典派経済学などと言われ、今もアメリカかぶれのエコノミストなどにもてはやされているのです。(183ページ)
これは徹頭徹尾でたらめである。ハイエクやフリードマンは、当時の主流だった新古典派に挑戦したのであって、「古典派経済学を持ち出した」のではない。最後の「新古典派経済学などと言われ」云々は、シカゴ学派と新古典派を取り違えている――と私が編集者に指摘したら、新しい版では「新自由主義経済学」と訂正されたが、そんな経済学も存在しない。
 
こういう「自由競争」への反発は、今に始まったものではない。イギリスの歴史家E.H.カーは第1次大戦後、この戦争は「19世紀の支配的な観念、すなわち自由民主主義、民族の自己決定権、自由放任の経済学に対する革命」だったとし、実質的に勝利したのは「ソ連とドイツだった」と評価した。彼のような社会主義者にとっては「中央集権的な計画化と統制のもとに、世界を大きな組織体に作り上げる」ことが人類の究極の理想だからである。[1944:ch.13]
 
また社会主義を理想とする人々が、科学者に多いことも特徴的だ。イギリスの科学誌『ネイチャー』は、「社会を科学的に組織する計画」を繰り返し特集した。そこでは多くの科学者が「資本主義の無政府性」を批判し、「国民を科学的に管理する」システムを提案した。
 
こうした科学者にとって、ダーウィンの進化論をモデルにして「不可避な歴史法則」を樹立した「科学的社会主義」は、きわめて受け入れやすいものだった。彼らは、自由主義を軽蔑した。なぜなら近代の科学においては、人間の行動もすべて物理学の法則に従っているので、自由という概念には意味がないからだ。
 
こうした傾向は、現在の科学技術者にもみられる。経済産業省の「情報大航海プロジェクト」や文部科学省の「京速計算機」のような時代錯誤の計画主義プロジェクトに多くの技術者が集まるのも、金銭的動機とばかりはいえない。彼らは、多くの技術者を動員して科学的な目的を計画的に達成することが望ましいと信じているのだ。
 
これは前にもみたように、目的の与えられたシステムでは正しい。一つのプロジェクトを効率的に実行することだけが目的であれば、そのために資源を最適配分するORのような「科学的管理法」が有効である。しかし問題は、その目的が正しいのかということだ。かつて同様の手法で行なわれた通産省の産業政策が失敗したのは、その目的の設定が間違っていたからである。

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