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第5章 合理主義への反逆

自由主義の二つの伝統
西欧世界の自由主義には、二つの伝統がある。一つは大陸の啓蒙思想(百科全書派)に始まり、デカルトからルソー、そしてイギリスではホッブズに至る合理主義の思想である。ここでは自由は、合理的な主体の契約によって設立される国家によって保証される権利である。その国家は、封建的な特権を打倒する革命によって樹立されるので、ルソーの思想はフランス革命の理論的支柱となった。
 
しかし『社会契約論』をよく読むと、国家の主権者となる「一般意志」は、自発的な契約や民主的な選挙で決まるわけではなく、「団結する各人がみずからを、そして自分のすべての権利を社会全体に完全に譲り渡すこと」によって成立するという曖昧なものだ。ホッブズも「万人の万人に対する闘い」を解決して無政府状態を脱するには、すべてを決定する主権者としての専制君主が必要だと主張した。
 
このような合理主義は、大陸では一貫して主流であり、その後カントを経て、ヘーゲルによって完成された。彼は『歴史哲学』の有名な序文で、「世界の歴史とは、精神が本来の自己をしだいに正確に知っていく過程を叙述するものだ」とした上で、「東洋人はひとりが自由であると知るだけであり、ギリシャとローマの世界は特定の人々が自由だと知り、われわれドイツ人はすべての人間が自由だと知っている」とのべた。
 
これは当時のドイツが民主主義だったという意味ではない。プロイセンは君主国だったが、御用学者ヘーゲルにとっては、ドイツ皇帝の定めた正しい秩序に従うことが真の自由であり、「自由とは必然の実現にほかならない」。こうして自由と必然という対立概念は「弁証法的に統一」されるわけだ。
 
同様のレトリックは、マルクスもよく使っている。「資本主義が共産主義に必然的に移行するなら、それを実現するための共産党という組織は自己矛盾ではないか」という皮肉な質問に対して、マルクスはいつもこのヘーゲルの言葉を引用して答えた。哲学としては、マルクスの理論は本質的にヘーゲルの弁証法を言い替えただけで、あまりオリジナルなものではない。
 
このように歴史には一定の法則があり、それに従うことによって望ましい社会が必然的に実現する、という考え方は、のちのドイツ歴史学派などにも継承された。ポパーは、こういう思想を「歴史主義」とよび、個人の行動から独立して動く「共同体」や「歴史的運命」を実体化する発想が全体主義をまねいたと批判した。ただ、こうした批判は新しいものではなく、前述のようにメンガーがすでに歴史学派に対して行なったものだ。
 
自由は先験的に明白な自然権でもなければ国家によって与えられる権利でもなく、長い間の習慣によって自発的に形成されたルールであり、法律や契約に明文化されているとも限らない。事実、イギリスにおける自由の拡大の歴史は、王の恣意的な課税に対して納税者が抗議し、王との協定としてマグナ・カルタが結ばれる、といった妥協の連続によって実現しており、明文の憲法はない。その代わり、不文律としての慣習法が憲法のような役割を果たしており、特定の法律が「慣習法に反する」として棄却されることもある。
 
しかしこうした慣習法は、ともすると前例踏襲主義になりがちで、古い習慣が新しい試みを妨害することもある。そういう場合には、慣習法を新しい状況に適応させることに成功したコミュニティが繁栄するという「淘汰」のメカニズムが働く、とハイエクは考える。つまり合理主義的な伝統においては、自由は旧体制を破壊する革命(revolution)によって実現するものと考えられているのに対して、経験主義の伝統では漸進的な進化(evolution)によって自由を獲得すると想定されているのだ。

合理主義者は、人は最初から知性と倫理をそなえており、それによって意識的に文明を築いたと考えているが、進化論者はそれは試行錯誤の結果、苦労して蓄積された成果であることを明らかにしている。[中略]そうした自然発生的な制度の意味は、あとになってわかるが、当時は人々がその目的もわからないままにつくった結果、役に立つようになることが多いのである。[1960:60]

ここにはハイエクがメンガーから学んだ「意図せざる結果」の発想が生きている。そして、だれも意図的に構築したわけではないのに、結果的に多くの人々の役に立っている制度の代表が、市場である。
 
したがってイギリス経験論の元祖とされているジョン・ロックの「自然権」の概念を、ハイエクは斥ける。「人々の努力を望ましい結果に導くのは、いかなる意味でも『自然な自由権』ではなく、生活や自由や財産を守るために進化してきたさまざまな制度である」。先験的に(神によって)与えられた権利とか理性を想定することは、特定の制度を絶対化する結果になりやすい。自由は、そのような絶対的な根拠をもたないがゆえに自由なのである。

伝統の意味
だから合理主義的な革命家が伝統的な価値を一挙に変革しようとするのに対して、ハイエクは「自然発生的にできた制度を維持し、起源や根拠のはっきりしないルールを守り、伝統や習慣を尊重せよ」と論じる。それは先人が現代人より賢かったからではない。何百年の歳月を経て生き残ってきた制度は、いわば歴史の実験によって何度も有効性を検証されてきたのであり、個人の経験をはるかに超える価値があるからだ。
 
伝統のもう一つの長所は、人々が昔からもっている習慣は、法的な権力によって強制しなくても自発的に守られるということだ。権力の発動が望ましくないことはいうまでもないが、もっと重要なのは、ルールが内面化されているため、だれも見ていないときにも「習慣に従わないと気持ちが悪い」ため、他人の目を盗んで怠けたり悪いことをしたりするのが防げることだ。
 
これは最近、経済学で「情報の非対称性」とか「モラルハザード」などとよばれる現象だが、日本人にはあまりなじみのない言葉だ。日本の同質的な社会では、良くも悪くもムラ的な掟が共有され、だれも見ていないところでもその掟を守る習慣が形成されていたからだ。ただし最近では、都市化にともなってこうしたムラ的なルールが通用しにくくなっている。
 
こうした慣習法的なルールは、だれかが合理的に設計したものではない。ヒュームが指摘したように、「道徳のルールは、理性による結論ではない」のである。それは言語が文法学者によって設計されたものではないように、多くの人々の相互作用の中から自然発生したものだ。それは法律のような文書になっていないので、人々の合意さえ形成できれば、状況の変化にあわせて変更するのも容易だ。
 
しかし新しい自然言語を作ることができないように、このルール全体を新たに作り変えることはむずかしい。それが行なわれるのは、戦争とか革命などの大規模な変化が起こったときで、その結果よりよいルールができるとも限らない。パリ市民の1/3を死刑台に送ったフランス革命や、数千万人を「粛清」したロシア革命のような悲劇が起こるのは、こうした革命の指導者が自分の合理性を信じるあまり、その意図せざる結果まで予測できなかったからだ。
 
ハイエクは無神論者なので、宗教にはほとんど言及しないが、グレイも指摘するように、こうした道徳を内面化する上で宗教が重要な役割を果たしている。多くの宗教で、教典を無条件に信じることが求められるのも、人々が同じ教えを信じているということ自体が、社会を安定化させる上で重要だからである。
 
したがって伝統や常識に必ずしも合理的な意味があるわけではないし、「保守主義者」がいうように古来から受け継がれてきたとも限らない。たとえば結婚式では、男性は黒いスーツに白いネクタイ、葬式では黒いネクタイが正装だが、こういう習慣が広まったのは戦後であり、それまでは和服が正装だった。
 
これはゲーム理論の言葉で「焦点」という概念で説明することができる。もし結婚式で黒いネクタイが常識だとしたら、そういう服装で出席することが焦点になるので、それに合わせることが合理的な行動だ。同様にみんなが白いネクタイがするなら、自分も白いネクタイをすることが合理的だ。つまり、服装がそろう焦点(望ましい状態)は複数あり、合理性だけではどちらとも決めることができない。こういうとき、習慣によって焦点が白いネクタイと決まっていれば、だれもがそれに合わせるので、人々の服装がそろう。なぜそれが焦点になるのかは、合理的に説明できない。
 
言語も同じだ。ソシュールが説いたように、なぜ「木」がフランス語ではarbreで、英語ではtreeなのか、合理的に説明することはできない。記号とその対象の関係は「恣意的」なのである。自然言語の文法は、不規則動詞や男性・女性名詞など不合理な面があるが、それを合理的に改造しようとするのは、エスペラントをつくるようなもので、たとえその文法が合理的でも、普及しない。習慣や言語は、多くの人々が使っているがゆえに自分も使うというトートロジーになっているからだ。

ハイエクは保守主義者か
こうした観点から、ハイエクはフランス革命を批判したエドマンド・バークを高く評価し、合理主義的な目的を掲げ、革命によって社会を計画的に建設しようとする計画主義を批判する。バークは『フランス革命についての省察』で、フランス革命を強く批判し、「革命の精神は、利己的な性情と狭隘な視野の産物である」と断じ、イギリスのように先祖から伝えられる伝統にもとづいて漸進的に改善することが望ましいと論じた。
 
こうした言説によって、バークは保守主義の元祖とされるが、「改良の精神を決して排除しない」と言っているように、彼は現状を無条件に維持せよと主張したわけではない。事実、バークはアメリカ独立革命を支持した。それはフランス革命とは違って、植民地の人々が自治の権利を回復する戦いだったからである。
 
ハイエクがバークを評価し、サッチャー首相の率いるイギリスの保守党がハイエクの理論にもとづく政策を実施したことから、ハイエクは保守主義者に分類されることが多い。しかし彼自身は保守主義者と呼ばれることをきらい、「なぜ私は保守主義者ではないか」[1960:397~]という論文を書いている。
 
この論文で、彼は自分の思想をバークと同じ「古いホイッグ」だとしている。ホイッグ党というのは、17世紀から19世紀までトーリー党(現在の保守党)と対立した党で、その後、自由党となったが、保守党と労働党の二大政党になってからは、次第に勢力が小さくなった。労働党の政策については、ハイエクは『隷従への道』などで強く批判していたので、どちらかといえば保守党に近いのだろうが、貴族の出身者が多く、既得権を擁護する傾向の強い保守党の政策には、必ずしも賛成していない。特に保守党にナショナリズムが強いことには懸念を示し、「保守主義がしばしば全体主義に陥るのは、このナショナリズム的なバイアスが架け橋になっている」とのべている。
 
では、ハイエクの思想を何と呼べばいいのだろうか。これについては、彼も困っている。「リベラル」という言葉は、特にアメリカで「大きな政府」を望む人々をさす言葉として使われるので、好ましくない。そのため、アメリカではシカゴ学派などを「リバタリアン」と呼ぶことがあるが、これはいかにも人工的な代用品という感じだ。結局、彼は自分の所属する党があるとすれば、「自由な成長と自発的な進化を好む党」とでもいうしかないと結論している。
 
こうした政策は、「新自由主義」とか「ネオリベラリズム」とよばれることもあるが、これには否定的なニュアンスがこめられていることが多い。むしろ日本語では、自由主義という言葉には変な色がついていないので、本書ではハイエクの思想を自由主義とよぶことにする。
 
ただ、サッチャー政権の政策は、ある意味では労働党よりよほど過激な改革であり、とても「保守的」な政策とはいえない。計画主義を批判し、漸進的な変化を説いたハイエクの理論が、戦後のイギリスではもっとも「革命的」な政策を実施したサッチャー政権に引用されたのは皮肉だが、これはハイエクの保守主義と自由主義の二面性を示している。

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