第3章 社会主義との闘い

今では「社会主義がだめだ」というのは常識だが、つい20年ほど前までは、世界の人口の半分近くを社会主義国が占め、日本でも「社会党」が野党第一党だった。「資本主義から社会主義に移行するのが歴史の必然だ」と信じる人がかなりいて、朝日新聞などは中国の文化大革命を賞賛していた。
 
特に知識人の世界では、こういう「進歩派」が多数を占めていた。それは欧米でも同じで、共産党の勢力はそれほど大きくなかったが、社会民主主義は広く支持を受けていた。1930年代には、資本主義の世界が大恐慌に沈む一方、ロシアは順調に成長を続けているように見えた。だから今ではとても想像がつかないが、そのころ社会主義を批判するのは非常に勇気のいることだった。
 
戦前の日本では、共産党が軍国主義に抵抗する勢力として(ごく少数ではあるが)最後まで残ったため、戦後その権威は高かった。ハイエクどころか、ワルラスもメンガーも「近代経済学」という特殊な学派として扱われ、私の世代まで、国立大学の多くではマルクス経済学が教えられていた。中でもハイエクやフリードマンは、資本主義を擁護する「右派」の思想とみられていた。
 
知識人が左翼的なのは、世界的な傾向である。これはおそらく彼らがある程度の合理的な知識をもち、自然科学によって自然が操作可能になったように、社会科学によって社会を合理的に操作できると思いがちなところからくるバイアスだろう。だから1930年代から社会主義を批判してきたハイエクの闘いは、今では想像もできないほど困難で孤独なものだった。

社会主義計算論争
メンガーの価値論や制度論を継承したハイエクにとって、イギリス労働党のように社会全体を集権的に「計画」しようとするのは、それが「意図せざる結果」をまねくことを知らない素朴な発想だと思われた。すでにミーゼスが1920年に、計画経済の欠陥を明らかにした論文を書いていたので、ハイエクはそれを英訳した論文を中心として『集権的計画経済』というタイトルの論文集を1935年に出した。これが「社会主義計算論争」として知られる、20世紀でもっとも有名な経済論争の始まりである。
 
ミーゼスの主張は、きわめて単純なものだ。市場経済では、貨幣によって人々の経済活動が媒介され、価格によって商品の価値が表示される。人々は複雑な計算をしなくても、ある商品の価格を見て、それが自分の主観的な評価(限界効用)より高いか安いかを考え、安いと思えば買えばよい。そうした需要と供給の相互作用によって商品の価値が決まり、企業は利潤(あるいは損失)を上げる。
 
ある企業が利潤を上げているということは、その商品の価格(社会的評価)がそれを生産するコスト(限界費用)より高いということだから、その企業が効率的に生産していることを示す。この場合には、他の企業が参入して商品の供給が増え、価格が下がる。逆に損失を出しているときは、その企業の商品の価値はコスト以下なので、生産をやめたほうがよい。それによって供給が減れば、価格が上がる。このように価格を通じて消費者の評価が伝えられることで、企業は正しい価格を計算なしに知ることができる。
 
このメカニズムがが機能するためには、財産権によって商品とその所有者が1対1に対応していることが不可欠である。人は、その労働の対価や投資の成果が100%自分のものになるから創意工夫をするのであり、働いても働かなくても同じ社会、あるいは投資の成果が国に奪われるような社会では、だれも働かなくなるだろう。
 
ところが社会主義経済には価格も財産権もないから、商品の価値を知る尺度がない。たとえば消費者にアンケートをとって集計し、そこから計算して価格をつける、といった作業を何百万種類もある商品すべてについて行なうには、莫大な計算が必要である。しかも、こういう計算がもし可能だとしても、それは消費財の価格を決めるだけで、その原料となる中間財や資本財の価格を決める基準はない。したがって財産権を否定する社会主義経済で、正しい資源配分を中央当局の計画で決めることは不可能である。
 
これに対して、ポーランドの経済学者オスカー・ランゲは『社会主義の経済理論』を発表して反論した。価格には、二つの機能がある。取引における交換比率としての機能と、その商品の価値(影の価格)を示す機能だ。後者は企業内の部門間でつけられる「移転価格」のようなもので、実際に貨幣による取引が行なわれる必要はなく、あるプロジェクトに帰着される価値がそのコストより高いか低いかをみればよい。
 
したがって中央当局は、自分で計算する必要はなく、ワルラスの「せり人」のように価格を提示して各企業の需要と供給を集計し、それが一致するまで価格を動かせばよい。貨幣も財産権もなくても、こうした「分権的社会主義」が可能であることは、新古典派経済学によって証明されている。
 
この反論は、理論的には正しい。1940年代には、影の価格を実際に計算する線形計画という手法が開発され、戦時経済における物流や生産の管理に実際に使われた。こうした手法は、オペレーションズ・リサーチ(OR)と呼ばれ、現在でも経営学の一分野になっている。ORは「作戦研究」という名の示すとおり、もとは戦争の補給を効率的に行なうシステムとして開発された。こうした手法は、戦争のように目的関数がはっきり決まっていて変化しないときには有効だ。
 
ある作戦に、武器と石油と食料という3つの資源が必要だとしよう。いくら武器がたくさんあっても、石油がなかったら動けないし、食料がなくなったら兵士が飢え死にしてしまう。こういうときの基本的な考え方は、なるべくバランスよく予算を割り当て、ボトルネックをなくすことだ。
 
かりにすべての予算を武器に割り当てたとすると、石油も食料もないので戦力はゼロだ。そこで石油と食料に1単位ずつ予算を配分すると、戦力は1単位分増えるが、武器が余ってしまう。そこで余った武器予算をまた他の資源に割り当てると戦力が増える・・・というようにシミュレーションを繰り返し、戦力が増えなくなったところでやめると、最適な資源配分が求められる。資源の数が増えると、この計算は非常に複雑になるので、コンピュータが必要だ。
 
米軍は、こういう手法で補給を手厚く行なったが、日本軍は補給を考えないで、すべての予算を武器につぎ込んだため、第二次大戦の戦死者230万人の半分近くが餓死という悲惨な結果になった。

分権的社会主義の挫折
このように分権的社会主義を実現することが理論的に可能であるばかりでなく、その計算を実際に行なう手法も発見されたことで、社会主義計算論争は社会主義側の勝利に終わったと思われた。1950年代には、アロウ=ドブリューらによって新古典派理論の一般均衡が存在することが数学的に証明された。
 線形計画で求めた解が新古典派経済学の一般均衡と一致することはフォン・ノイマンによって証明されていたので、これによって社会全体を巨大な線形計画問題として定義すれば、必ず答は求められることが証明された。この時期が新古典派の黄金時代で、すべての経済問題がコンピュータで機械的に解けるのは時間の問題だと思われた。
 
1960年代には、ハンガリーの経済学者コルナイが、新古典派理論を応用して実際に分権的社会主義を運営するメカニズムを設計し、それを18部門からなる生産計画で実験した。まず中央の計画当局から各部門に生産量を割り当て、各部門がそれを生産するのに必要な「影の価格」を申告する。この申告をみて中央は効率の悪い(限界生産量の少ない)部門への割り当てを減らし、効率のよい部門に割り当てる・・・というやりとりを繰り返し、それ以上生産量が上がらないところで計画を決めるのだ。
 
これは線形計画に似た方法で、目的関数が決まれば、手続きはコンピュータのプログラムとして書ける。しかしプログラミングを行なう作業は膨大で、200人もの人々が計画に参加した。プログラムが大きすぎて当時のコンピュータでは処理できないため、大幅に簡略化したプログラムが使われたが、作業は難航した。5年間にわたって試行錯誤が行なわれたが、結果的にはこの実験は失敗に終わった。
 
最大の原因は、計算を行なう前提となる目的関数が決められなかったことだ。戦争や企業のプロジェクトなら、司令官や経営者が決めればよいが、経済全体の目的は誰が決めればよいのだろうか。政治家は、政策に優先順位をつけることをきらい、あれもこれもやろうとする。特に、その目的を数値化することを好まない。
 
こうした問題を無視して、とりあえず目標を決めたとしても、今度は計算に必要なデータを集めるのが大変だ。官僚は自分たちの仕事の「台所」を見せたくないので、仕事の目標を数値的に明示するのをいやがる。正しいデータを提供するインセンティブがないので、データに信頼性がない。結果的には、実際に計算を行なう以前の段階で計画が破綻してしまった。その原因を、コルナイ[2005]は次のように総括している。

この問題を今の頭で考え直してみると、ハイエクの議論にたどりつく。すべての知識すべての情報を、単一のセンター、あるいはセンターとそれを支えるサブ・センターに集めることは不可能だ。知識は分権化される必要がある。情報を所有する者が自分のために利用することで、情報の効率的な完全利用が実現する。したがって、分権化された情報には、営業の自由と私的所有が付随していなければならない。(158ページ)
計画の主体として、個人を超えた社会とか国家というものを想定するとき、最大の問題は、国家の目的関数は具体的にどうなっているのかということだ。個人の目的は明確だが、それを国家としてどう集計するのか。あるいは国家が適当な目的関数を設定したとして、それが国民全体の福祉を最大化することはどうやって保証されるのか。
 
企業のプロジェクトでは、与えられた目的を最適化することだけを考え、あとはできた商品が市場で売れるかどうかをみて目的関数を変更すればよいが、計画経済では最初の目的を決めるところで挫折してしまう。消費者の目的を、たとえばアンケートで集計するとしても、その好みは多様で、刻々と変化している。それをどこかの時点で収集したとしても、それをどう「社会的目的関数」として集計するかという問題が残る。
 
現実の社会主義国では、組織的な計画手法はまったく使われていなかった。中央の官僚が適当に目標を設定して各工場に割り当て、それがうまく行かないと場当たり的に割り当てを変更する。ソ連の計画経済を運営していたゴスプランの官僚が「膨大な計画をどうやって実行しているのか」ときかれて「電話」と答えた、という小話がある。
 
結果的には、コルナイの実験は分権的社会主義が現実には不可能であることを証明し、市場経済がいかに膨大な「計算」を自律分散的に行なっているかを明らかにした。30年代には論争に負けたようにみえたハイエクやミーゼスの理論が正しいことが、実験によって証明されたのだ。

隷従への道
こうした論争を総括し、社会主義の危険を説いたのが、ハイエクの『隷従の道』である。これは最初は、イギリス国内向けの啓蒙書だったが、アメリカでベストセラーになり、ハイエクを一躍有名にしたが、他方では彼に保守反動の代表選手というイメージを植えつけた。のちにハイエクは「私は、この本で経済学者の信用を失いました。私の学問的影響力が下がっただけでなく、ほとんどの学科が私を嫌悪するようになったのです」と語っている。
 
今でも、自由主義を「市場原理主義」などと呼んで反発する人々は後を絶たない。その代表が、ベストセラー『国家の品格』を書いた藤原正彦氏である。彼は次のように書く。

アメリカの経済がうまくいかなくなってきた1970年代から、ハイエクやフリードマンといった人々がケインズを批判し、再び古典派経済学を持ち出しました。もし経済がうまくいかなければ、どこかに規制が入っていて自由競争が損なわれているからだ、とまでいう理論です。時代錯誤とも言えるこの理論は、新古典派経済学などと言われ、今もアメリカかぶれのエコノミストなどにもてはやされているのです。(183ページ)
これは徹頭徹尾でたらめである。ハイエクやフリードマンは、当時の主流だった新古典派に挑戦したのであって、「古典派経済学を持ち出した」のではない。最後の「新古典派経済学などと言われ」云々は、シカゴ学派と新古典派を取り違えている――と私が編集者に指摘したら、新しい版では「新自由主義経済学」と訂正されたが、そんな経済学も存在しない。
 
こういう「自由競争」への反発は、今に始まったものではない。イギリスの歴史家E.H.カーは第1次大戦後、この戦争は「19世紀の支配的な観念、すなわち自由民主主義、民族の自己決定権、自由放任の経済学に対する革命」だったとし、実質的に勝利したのは「ソ連とドイツだった」と評価した。彼のような社会主義者にとっては「中央集権的な計画化と統制のもとに、世界を大きな組織体に作り上げる」ことが人類の究極の理想だからである。[1944:ch.13]
 
また社会主義を理想とする人々が、科学者に多いことも特徴的だ。イギリスの科学誌『ネイチャー』は、「社会を科学的に組織する計画」を繰り返し特集した。そこでは多くの科学者が「資本主義の無政府性」を批判し、「国民を科学的に管理する」システムを提案した。
 
こうした科学者にとって、ダーウィンの進化論をモデルにして「不可避な歴史法則」を樹立した「科学的社会主義」は、きわめて受け入れやすいものだった。彼らは、自由主義を軽蔑した。なぜなら近代の科学においては、人間の行動もすべて物理学の法則に従っているので、自由という概念には意味がないからだ。
 
こうした傾向は、現在の科学技術者にもみられる。経済産業省の「情報大航海プロジェクト」や文部科学省の「京速計算機」のような時代錯誤の計画主義プロジェクトに多くの技術者が集まるのも、金銭的動機とばかりはいえない。彼らは、多くの技術者を動員して科学的な目的を計画的に達成することが望ましいと信じているのだ。
 
これは前にもみたように、目的の与えられたシステムでは正しい。一つのプロジェクトを効率的に実行することだけが目的であれば、そのために資源を最適配分するORのような「科学的管理法」が有効である。しかし問題は、その目的が正しいのかということだ。かつて同様の手法で行なわれた通産省の産業政策が失敗したのは、その目的の設定が間違っていたからである。

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ハイエクは「清算主義者」だったのか

「構造改革は清算主義だ」という類の話が、よくリフレ派から出てくる。これはフーバーの回顧録(1952)にある、メロン財務長官の次のような言葉が根拠だ:

First was the “leave it alone liquidationists” headed by Secretary of the Treasury Mellon, who felt that government must keep its hands off and let the slump liquidate itself. Mr. Mellon had only one formula: “Liquidate labor, liquidate stocks, liquidate the farmers, liquidate real estate.”
しかし、これを裏づける1次資料はない。それどころかメロンは、次のように「清算」を否定しているのだ(White)。
Conditions today are neither so critical nor so unprecedented as to justify a lack of faith in our capacity to deal with them in our accustomed way.[the present moment was] no time to undertake drastic experiments which may conceivably result in breaking down the standard of living to which we have become accustomed.
フーバーがメロンを「悪玉」にしたのは理由があった。彼が回顧録を書いたとき、すでにメロンは死去しており、「フーバーが大恐慌を作り出した」という批判をかわすために、メロンに責任をなすりつける必要があったからだ。彼は、最初の引用に続けてこう書いている:
But other members of the Administration, also having economic responsibilities―Under Secretary of the Treasury Mills, Governor Young of the Reserve Board, Secretary of Commerce Lamont and Secretary of Agriculture Hyde―believed with me that we should use the powers of government to cushion the situation.
つまりフーバーや財務省の他の官僚が「善玉」で、メロンが彼らを押し切ったという話になっているのだ。これを鵜呑みにした経済学者がliquidationismという言葉を安易に使うようになり、ハイエクやロビンズまで清算主義者だといわれるようになったが、これはWhiteも指摘するように明白な誤りである。むしろハイエクは、貨幣の流通速度が低下しているときは通貨供給を増やしてマネーストックを安定させるべきだと書いている。

ケインズの財政政策には、ハイエクもロビンズも反対し、これが「清算主義」という汚名を着せられる原因となった。しかし今日からみると、ケインズの財政政策が大恐慌から世界を救ったというのは神話であり、マネーストックを安定させるべきだというハイエクの提言のほうが適切だった。ただし、ハイエクの議論はたぶんに混乱しており、デフレを肯定するようなことも書いた。大恐慌の最中に「何もするな」というに等しい政策提言しかできなかったという批判も、結果的には事実だろう。

大不況に際して、市場の機能を重視する経済学者を清算主義者とよぶレトリックは、Krugmanにも継承されており、きわめて有害なものだ。「・・・主義者」というレッテルによって何事かを言ったつもりになるのは、イデオロギーであって科学ではない。

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第5章 合理主義への反逆

自由主義の二つの伝統
西欧世界の自由主義には、二つの伝統がある。一つは大陸の啓蒙思想(百科全書派)に始まり、デカルトからルソー、そしてイギリスではホッブズに至る合理主義の思想である。ここでは自由は、合理的な主体の契約によって設立される国家によって保証される権利である。その国家は、封建的な特権を打倒する革命によって樹立されるので、ルソーの思想はフランス革命の理論的支柱となった。
 
しかし『社会契約論』をよく読むと、国家の主権者となる「一般意志」は、自発的な契約や民主的な選挙で決まるわけではなく、「団結する各人がみずからを、そして自分のすべての権利を社会全体に完全に譲り渡すこと」によって成立するという曖昧なものだ。ホッブズも「万人の万人に対する闘い」を解決して無政府状態を脱するには、すべてを決定する主権者としての専制君主が必要だと主張した。
 
このような合理主義は、大陸では一貫して主流であり、その後カントを経て、ヘーゲルによって完成された。彼は『歴史哲学』の有名な序文で、「世界の歴史とは、精神が本来の自己をしだいに正確に知っていく過程を叙述するものだ」とした上で、「東洋人はひとりが自由であると知るだけであり、ギリシャとローマの世界は特定の人々が自由だと知り、われわれドイツ人はすべての人間が自由だと知っている」とのべた。
 
これは当時のドイツが民主主義だったという意味ではない。プロイセンは君主国だったが、御用学者ヘーゲルにとっては、ドイツ皇帝の定めた正しい秩序に従うことが真の自由であり、「自由とは必然の実現にほかならない」。こうして自由と必然という対立概念は「弁証法的に統一」されるわけだ。
 
同様のレトリックは、マルクスもよく使っている。「資本主義が共産主義に必然的に移行するなら、それを実現するための共産党という組織は自己矛盾ではないか」という皮肉な質問に対して、マルクスはいつもこのヘーゲルの言葉を引用して答えた。哲学としては、マルクスの理論は本質的にヘーゲルの弁証法を言い替えただけで、あまりオリジナルなものではない。
 
このように歴史には一定の法則があり、それに従うことによって望ましい社会が必然的に実現する、という考え方は、のちのドイツ歴史学派などにも継承された。ポパーは、こういう思想を「歴史主義」とよび、個人の行動から独立して動く「共同体」や「歴史的運命」を実体化する発想が全体主義をまねいたと批判した。ただ、こうした批判は新しいものではなく、前述のようにメンガーがすでに歴史学派に対して行なったものだ。
 
自由は先験的に明白な自然権でもなければ国家によって与えられる権利でもなく、長い間の習慣によって自発的に形成されたルールであり、法律や契約に明文化されているとも限らない。事実、イギリスにおける自由の拡大の歴史は、王の恣意的な課税に対して納税者が抗議し、王との協定としてマグナ・カルタが結ばれる、といった妥協の連続によって実現しており、明文の憲法はない。その代わり、不文律としての慣習法が憲法のような役割を果たしており、特定の法律が「慣習法に反する」として棄却されることもある。
 
しかしこうした慣習法は、ともすると前例踏襲主義になりがちで、古い習慣が新しい試みを妨害することもある。そういう場合には、慣習法を新しい状況に適応させることに成功したコミュニティが繁栄するという「淘汰」のメカニズムが働く、とハイエクは考える。つまり合理主義的な伝統においては、自由は旧体制を破壊する革命(revolution)によって実現するものと考えられているのに対して、経験主義の伝統では漸進的な進化(evolution)によって自由を獲得すると想定されているのだ。

合理主義者は、人は最初から知性と倫理をそなえており、それによって意識的に文明を築いたと考えているが、進化論者はそれは試行錯誤の結果、苦労して蓄積された成果であることを明らかにしている。[中略]そうした自然発生的な制度の意味は、あとになってわかるが、当時は人々がその目的もわからないままにつくった結果、役に立つようになることが多いのである。[1960:60]

ここにはハイエクがメンガーから学んだ「意図せざる結果」の発想が生きている。そして、だれも意図的に構築したわけではないのに、結果的に多くの人々の役に立っている制度の代表が、市場である。
 
したがってイギリス経験論の元祖とされているジョン・ロックの「自然権」の概念を、ハイエクは斥ける。「人々の努力を望ましい結果に導くのは、いかなる意味でも『自然な自由権』ではなく、生活や自由や財産を守るために進化してきたさまざまな制度である」。先験的に(神によって)与えられた権利とか理性を想定することは、特定の制度を絶対化する結果になりやすい。自由は、そのような絶対的な根拠をもたないがゆえに自由なのである。

伝統の意味
だから合理主義的な革命家が伝統的な価値を一挙に変革しようとするのに対して、ハイエクは「自然発生的にできた制度を維持し、起源や根拠のはっきりしないルールを守り、伝統や習慣を尊重せよ」と論じる。それは先人が現代人より賢かったからではない。何百年の歳月を経て生き残ってきた制度は、いわば歴史の実験によって何度も有効性を検証されてきたのであり、個人の経験をはるかに超える価値があるからだ。
 
伝統のもう一つの長所は、人々が昔からもっている習慣は、法的な権力によって強制しなくても自発的に守られるということだ。権力の発動が望ましくないことはいうまでもないが、もっと重要なのは、ルールが内面化されているため、だれも見ていないときにも「習慣に従わないと気持ちが悪い」ため、他人の目を盗んで怠けたり悪いことをしたりするのが防げることだ。
 
これは最近、経済学で「情報の非対称性」とか「モラルハザード」などとよばれる現象だが、日本人にはあまりなじみのない言葉だ。日本の同質的な社会では、良くも悪くもムラ的な掟が共有され、だれも見ていないところでもその掟を守る習慣が形成されていたからだ。ただし最近では、都市化にともなってこうしたムラ的なルールが通用しにくくなっている。
 
こうした慣習法的なルールは、だれかが合理的に設計したものではない。ヒュームが指摘したように、「道徳のルールは、理性による結論ではない」のである。それは言語が文法学者によって設計されたものではないように、多くの人々の相互作用の中から自然発生したものだ。それは法律のような文書になっていないので、人々の合意さえ形成できれば、状況の変化にあわせて変更するのも容易だ。
 
しかし新しい自然言語を作ることができないように、このルール全体を新たに作り変えることはむずかしい。それが行なわれるのは、戦争とか革命などの大規模な変化が起こったときで、その結果よりよいルールができるとも限らない。パリ市民の1/3を死刑台に送ったフランス革命や、数千万人を「粛清」したロシア革命のような悲劇が起こるのは、こうした革命の指導者が自分の合理性を信じるあまり、その意図せざる結果まで予測できなかったからだ。
 
ハイエクは無神論者なので、宗教にはほとんど言及しないが、グレイも指摘するように、こうした道徳を内面化する上で宗教が重要な役割を果たしている。多くの宗教で、教典を無条件に信じることが求められるのも、人々が同じ教えを信じているということ自体が、社会を安定化させる上で重要だからである。
 
したがって伝統や常識に必ずしも合理的な意味があるわけではないし、「保守主義者」がいうように古来から受け継がれてきたとも限らない。たとえば結婚式では、男性は黒いスーツに白いネクタイ、葬式では黒いネクタイが正装だが、こういう習慣が広まったのは戦後であり、それまでは和服が正装だった。
 
これはゲーム理論の言葉で「焦点」という概念で説明することができる。もし結婚式で黒いネクタイが常識だとしたら、そういう服装で出席することが焦点になるので、それに合わせることが合理的な行動だ。同様にみんなが白いネクタイがするなら、自分も白いネクタイをすることが合理的だ。つまり、服装がそろう焦点(望ましい状態)は複数あり、合理性だけではどちらとも決めることができない。こういうとき、習慣によって焦点が白いネクタイと決まっていれば、だれもがそれに合わせるので、人々の服装がそろう。なぜそれが焦点になるのかは、合理的に説明できない。
 
言語も同じだ。ソシュールが説いたように、なぜ「木」がフランス語ではarbreで、英語ではtreeなのか、合理的に説明することはできない。記号とその対象の関係は「恣意的」なのである。自然言語の文法は、不規則動詞や男性・女性名詞など不合理な面があるが、それを合理的に改造しようとするのは、エスペラントをつくるようなもので、たとえその文法が合理的でも、普及しない。習慣や言語は、多くの人々が使っているがゆえに自分も使うというトートロジーになっているからだ。

ハイエクは保守主義者か
こうした観点から、ハイエクはフランス革命を批判したエドマンド・バークを高く評価し、合理主義的な目的を掲げ、革命によって社会を計画的に建設しようとする計画主義を批判する。バークは『フランス革命についての省察』で、フランス革命を強く批判し、「革命の精神は、利己的な性情と狭隘な視野の産物である」と断じ、イギリスのように先祖から伝えられる伝統にもとづいて漸進的に改善することが望ましいと論じた。
 
こうした言説によって、バークは保守主義の元祖とされるが、「改良の精神を決して排除しない」と言っているように、彼は現状を無条件に維持せよと主張したわけではない。事実、バークはアメリカ独立革命を支持した。それはフランス革命とは違って、植民地の人々が自治の権利を回復する戦いだったからである。
 
ハイエクがバークを評価し、サッチャー首相の率いるイギリスの保守党がハイエクの理論にもとづく政策を実施したことから、ハイエクは保守主義者に分類されることが多い。しかし彼自身は保守主義者と呼ばれることをきらい、「なぜ私は保守主義者ではないか」[1960:397~]という論文を書いている。
 
この論文で、彼は自分の思想をバークと同じ「古いホイッグ」だとしている。ホイッグ党というのは、17世紀から19世紀までトーリー党(現在の保守党)と対立した党で、その後、自由党となったが、保守党と労働党の二大政党になってからは、次第に勢力が小さくなった。労働党の政策については、ハイエクは『隷従への道』などで強く批判していたので、どちらかといえば保守党に近いのだろうが、貴族の出身者が多く、既得権を擁護する傾向の強い保守党の政策には、必ずしも賛成していない。特に保守党にナショナリズムが強いことには懸念を示し、「保守主義がしばしば全体主義に陥るのは、このナショナリズム的なバイアスが架け橋になっている」とのべている。
 
では、ハイエクの思想を何と呼べばいいのだろうか。これについては、彼も困っている。「リベラル」という言葉は、特にアメリカで「大きな政府」を望む人々をさす言葉として使われるので、好ましくない。そのため、アメリカではシカゴ学派などを「リバタリアン」と呼ぶことがあるが、これはいかにも人工的な代用品という感じだ。結局、彼は自分の所属する党があるとすれば、「自由な成長と自発的な進化を好む党」とでもいうしかないと結論している。
 
こうした政策は、「新自由主義」とか「ネオリベラリズム」とよばれることもあるが、これには否定的なニュアンスがこめられていることが多い。むしろ日本語では、自由主義という言葉には変な色がついていないので、本書ではハイエクの思想を自由主義とよぶことにする。
 
ただ、サッチャー政権の政策は、ある意味では労働党よりよほど過激な改革であり、とても「保守的」な政策とはいえない。計画主義を批判し、漸進的な変化を説いたハイエクの理論が、戦後のイギリスではもっとも「革命的」な政策を実施したサッチャー政権に引用されたのは皮肉だが、これはハイエクの保守主義と自由主義の二面性を示している。

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第7章の補足と文献

「見えざる手」が自生的秩序をもたらすかどうかという問題は、ゲーム理論の言葉でいうと、「ナッシュ均衡はパレート支配戦略になるか」と言い替えることができる(山中優『ハイエクの政治思想』)。この答は、一般的には否である。おなじみの「囚人のジレンマ」では、ナッシュ均衡は最悪の結果をもたらす。

このように市場メカニズムには意図せざる結果がつきものなので、個人の行動の合理性だけではなく、それが合成されてどういう結果をもたらすかを考えることが重要だ。人々の合理的(利己的)な行動の結果が社会的にも効率的になるのは、メンバーの選好がマスキン単調な関係(ある人にとって好ましい状態は他の人にも好ましい)にあるような場合に限られる。もちろん直接には、法秩序によって契約違反は処罰されるのだが、そういうルールは契約履行がナッシュ均衡でないかぎり守られない。

市場がこのような単調性を満たすかどうか(ナッシュ遂行できるか)というのは古くから議論されてきた問題だが、Hurwiczはそれが不可能であることを示した。ワルラス的な市場では、人々はせり人に対して需要をシステマティックに偽ることによって低い価格を実現できるからだ。

したがってアダム・スミスの推測を証明するのは、単純な合理性だけでは不可能だ。それは一種の利他的な遺伝子によって実現していると考えたほうがよい。生物学的にいうと、これはSober-Wilson, "Unto Others"に書かれているような集団淘汰のメカニズムが文化的レベルでも働いていると考えることができる。この基本にあるのは、裏切り者は共同体から排除される村八分(フォーク定理)のメカニズムだ。

もう一つの考え方は、スミスが『道徳感情論』でのべた「共感」の感情が市場秩序の根底にあると解釈することだ(堂目卓生『アダム・スミス』)。これがRawlsからBinmoreに至る「公正」の理論だが、このような感情だけで市場の秩序を維持するのは困難だ。特に市場がグローバル化した現代では、道徳感情で秩序を維持することは不可能なので、司法的な制度が重要になる。

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第4章5節 神経細胞の秩序

自律分散的な主体が相互作用することで自生的秩序が生み出されるというハイエクの発想は、一九五二年に書かれた『感覚秩序』にもみられる。といっても、ここでいう秩序は社会秩序ではなく、脳内の秩序である。前にものべたように、彼は学生時代、心理学の道に進もうと考えたことがあったぐらいで、この本のアイディアは学生時代のものだと彼は語っている。

経済学者が心理学の本を書くというのは、当時はディレッタンティズムとしか思われず、この本は無視され、その後のハイエク研究でも『感覚秩序』に言及しているものはほとんどない。しかしこの本は最近になって、新しい認知科学モデルの先駆として再評価され始めている。

ハイエクは、そのころ主流だった行動主義心理学を批判した。刺激と反応によって人間の行動を説明するモデルでは、人間の心理は説明できないからだ。行動主義心理学では人間の心理は物理的な刺激の集積として機械的に決まると想定されているが、実際にはそんな対応関係はみられない。ゲシュタルト心理学にみられるように、物理的な刺激とは別のレベルの「感覚秩序」は、それ自体が一つの原理で動いているのだ。

ハイエクの想定する原理は、ニューロン(神経細胞)の結合パターンが一定の感覚の「分類」に対応するというものだ。感覚に与えられる刺激は雑多なもので、それ自体は意味をもたない。ところが神経を刺激して、脳内で一定のパターンが形成されると、それによって感覚が分類され、たとえば連続したスペクトラムからなる可視光線を赤とか青とかいう色彩として認識するようになる。この複雑なものがゲシュタルトである。

この説は実験の裏づけもなく、ほとんど直感的に語られているので、当時は心理学者にも相手にされなかった。一九六〇年代以降、盛んになった「機能主義」の考え方では、脳は一種のコンピュータと考えられ、論理的アルゴリズムでその思考を再現することによって「人工知能」ができると考えられた。

しかし一九八〇年代に流行した人工知能は、ほとんどみるべき成果を生まず、挫折した。挫折の原因は、コンピュータは計算や検索などの客観的知識の処理は得意だが、たとえば「あれを見ろ」というとき、「あれ」が何をさすのか、といった常識的な判断の処理がむずかしく、膨大な手間がかかるということだった。これは「フレーム問題」と呼ばれる。対象にはほとんど無限のフレーム(属性)があるので、その組み合わせが膨大になって、普通のコンピュータでは処理できないのだ。

その結果、出てきたのが「コネクショニズム」というモデルだった。このモデルは、フォン・ノイマン型コンピュータのようにデータとプログラムをあらかじめ入力するのではなく、脳を並列処理コンピュータの一種と考える。そして入力(たとえば文字列)と出力(たとえば音声)の関係を、一定の素子の結合として記憶させ、それが間違っていたらエラーを返し、合っていたら結合を強める、といった操作を繰り返すことで、一定の結合様式が強まり、入力と出力の関係を学習するようになるというものだ。

また脳科学の分野でも、ニューロンのグループと特定の認識パターンが対応し、同じ刺激が繰り返されることでそのニューロンをつなぐシナプスの結合が強められ、刺激のなくなったシナプスは切れるという淘汰によってカテゴリーが形成される、という「ニューラル・ダーウィニズム」仮説が提唱されている。

この仮説を提唱した現代の代表的な脳科学者ジェラルド・エーデルマンは、その先駆はハイエクだとし、『感覚秩序』を「人間の知識そのものについての深い思考の実例として、この本を読むことをお勧めする。もっとも印象的なのは、知覚の問題の鍵となるのは分類の性質の解明だということを、彼が理解していることだ」と評している。(Edelman, G.M. "Through a computer darkly", The American Academy of Arts and Sciences, 1982)

エーデルマンの理論でいうカテゴリーが、ハイエクの分類にほぼ対応する。両者に共通するのは、知覚を外界の対象や脳への刺激に対応させるのではなく、シナプスの結合によって形成される脳内のパターンに対応させていることだ。ハイエクが、この理論をコンピュータも脳科学もなかった時代に、ほとんど「深い思考」だけで創造したのは驚くべきことである。シナプスの結合とその競争によってパターンが自生的に形成されてゆくというイメージは、彼の社会哲学とも共通する部分がある。

このように知覚やカテゴリーが、特定のアルゴリズムでデータを処理することによってできるのではなく、断片的な感覚が集まってパターンを自発的に形成するという考え方は、ハイエクの遠い親戚であるヴィトゲンシュタインの後期の思想とも共通する面がある。ただハイエクは、学問的にはヴィトゲンシュタインの影響は受けておらず、「類似は偶然だろう」とのべている。

こうした経済学と脳科学の出会いは、最近になって「ニューロエコノミクス」という形で始まっている。経済的な行動が合理的な選択よりも心理的なバイアスによって決まるという仮説にもとづき、そうした行動をもたらす脳内のニューロンやシナプスの動きを解明するものだ。経済学と脳科学という、かつては突飛な組み合わせだった学問が、ハイエクから半世紀以上たって出会ったのである。

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Economics as a Coordination Problem

ハイエクの思想を「コーディネーションの経済学」という立場から論じるO'Driscollの本がオンラインで読める。

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第2章 ハイエク対ケインズ

Book_2 一九二九年一〇月、ウォール街で起こった株価の暴落から始まった大恐慌は、経済学にとって大きな試練だった。アダム・スミス以来、英米の経済学者は自由な市場と自由貿易が最大の富をもたらすと論じてきたが、一〇年以上にわたって不況と高い失業率が続いた大恐慌は、市場メカニズムの自動調整機能に大きな疑問を抱かせた。

イギリスでは、一九二九年に労働党が初めて第一党となり、社会主義の影響が強まった。ロシアではボルシェヴィキが革命を成功させ、ドイツでも革命が起こり、社会民主党が政権を取った。フランスやスペインでも、知識人が「人民戦線」に結集し、社会主義を唱えるようになった。

経済学者も、市場メカニズムは必ずしも需給を調整するように動かないと考えるようになったが、その原因は一時的な「摩擦」や、労働組合が賃下げに抵抗するためだと考えられていた。とくに当時のイギリスの経済学界の中心人物だったアーサー・ピグーは「失業(労働の超過供給)は賃金が高すぎるから起こるので、賃金を引き下げるべきだ」と主張した。

他方、不況によって税収が減ると、政府は緊縮財政をとるようになり、さらに不況を拡大するという悪循環をまねいていた。明らかに、新古典派経済学が想定するのとは違う状況が続いていたのだが、この状況を説明できる経済学者はいなかった。未曾有の経済危機は、経済学にとっても危機の時代だった。

大恐慌時代のイギリス
ハイエクがLSE(ロンドンスクール・オブ・エコノミックス)に客員教授としてまねかれ、イギリスに渡ったのは、こうした不況の嵐が吹き荒れるさなかの一九三一年だった。LSEは、労働党を指導したフェビアン協会の中心人物、ウェッブ夫妻によって創立された経済学を専門とする大学で、社会民主主義の本拠地とみなされていた。そこにハイエクがまねかれたのは奇妙な組み合わせだが、それは彼がケインズを批判したドイツ語の論文が、LSEの教授だったライオネル・ロビンズの目に留まったのがきっかけだった。

フェビアン協会は、ロシア革命を起こしたボルシェヴィキに反対し、民主的な手続きによって社会主義を実現することを綱領に掲げていた。社会主義は、合理的に考えれば明らかに資本主義よりすぐれたシステムなので、暴力は必要なく、社会民主主義の理論を教育して人々を啓蒙すれば、おのずから社会主義が多数派になると考えていた。大学を設立したのもその教育のためだった。

しかし世界的には、当時の社会主義(共産主義)の主流は、ロシア革命を実現したボルシェヴィキの指導するコミンテルン(第三インターナショナル)であり、暴力革命によらなければ国家権力は掌握できないとする「マルクス・レーニン主義」が大きな影響力をもっていた。彼らは、議会を通じて革命を実現しようとする社会民主主義を「修正主義」と批判した。マルクス・レーニン主義者にとって、資本主義は労働者を搾取する根本的に不合理な経済体制であり、労働者の待遇を改善することによって彼らの不満を緩和する社会民主主義は、その根本的な矛盾を解決するための革命のエネルギーをそぐ、と彼らは考えたのである。

この暴力革命という方法論は、一九世紀後半の労使対立が激化した時代に、とくにパリ・コミューンをモデルにして想定された政治的な方針であり、マルクスの経済理論と論理的な関係はない。マルクスが使った「プロレタリアート(労働者)の独裁」という言葉も、市民社会が現実には権力を握るブルジョア(資本家)による独裁体制であるという意味をこめた反語であり、文字どおりの独裁によってプロレタリアートが専制君主のようにふるまうことを意味するものではない。

しかし当時は、暴力革命こそ純粋なマルクス主義であり、社会民主主義は、現体制と妥協してその延命をはかるものだという考え方が有力だった。とくに、暴力革命を主張したレーニンやトロツキーが現実に革命を実現したという事実の重みは大きく、マルクスの理論とレーニンの暴力革命論は一体と考えられがちだった。
 フェビアン協会は、こうした革命はロシアのような遅れた国のものであり、イギリスのような先進国では民主的な手段で社会主義を実現することが可能だと考えていたが、その基盤となるマルクスの理論に対抗できるものがなかった。新古典派経済学は、マルクスに対抗する理論と目されたのである。

他方、経済学の世界では、リカード以来の(マルクスも踏襲した)労働価値説が現実の経済を定量的に説明できないことは明らかで、主流は一九世紀に新古典派経済学に移っていた。しかし、新古典派はマルクスの理論のような華麗なレトリックに乏しく、人々を行動に駆り立てる理想を欠いた地味な理論で、専門的な経済学者以外にはほとんど理解されていなかった。労働党のなかでさえ、ボルシェヴィキのような急進的な方針を主張する「左派」と、現実主義的な「右派」との対立が続いていた。

ロビンズは、この分類でいえば右派であり、ケインズが主張する政府の市場への介入についても批判的だった。しかし金融論は彼の専門ではなかったので、金融の専門家であるハイエクに注目したのである。ケインズを批判していたハイエクは、もともと社会主義というイデオロギーそのものを否定しており、社会主義を教育するLSEにまねかれたのは皮肉なめぐりあわせだったが、こうして彼は経済学の表舞台に登場することになる。

時あたかも大恐慌の最中で、政府が失業手当だけではなく公共事業による「失業対策」で雇用を増やすべきだという主張が、労働党政権で出ていた。しかしピグーやホートレイなどの主流の経済学者は、政府が雇用を増やしたぶん民間の雇用が減るので、そのような一時しのぎの政策は財政赤字を増やすだけだと反対した。

自由放任の終焉
大恐慌は、市場メカニズムへの信頼を失わせ、政府の介入を求める政治的な圧力が強まっていた。こうした状況で、ジョン・メイナード・ケインズ(一八八三~一九四六)が経済学の主役になったのは、ある意味で歴史の必然だった。今の段階で客観的に考えると、彼の理論はそれほど革命的なものではなく、のちほど見るように彼が「古典派」として攻撃した主流の経済学をくつがえすものでもない。

しかし第一次大戦後、ロシアや欧州各国で社会主義革命が起こり、市場経済に人々が疑問を持ち始めたとき、「自由放任の終焉」を宣告したケインズが大きな支持を受けたのは当然だった。ケインズ[1926]は「自由放任の終焉」を宣言した。

自由放任の論拠とされてきた形而上学ないしは一般的原理は、これをことごとく一掃してしまおうではないか。[中略]世界は、私的利害と社会的利害がつねに一致するように天上から統治されているわけではない。世界は、現実のうえでも、両者が一致するように、この地上で管理されているわけではない。啓発された利己心は、つねに社会全体の利益になるようにはたらくというのは、経済学原理からの正確な演繹ではない。

ここには市場の「無政府性」を政府がコントロールするという社会主義の影響がみられるが、ケインズ自身は社会主義の立場をとることはなかった。彼は、マルクス主義については「非論理的で退屈な教義」と切り捨てている。マルクスやヘーゲルに代表される、個人を超えた「歴史的必然」を想定する哲学は、彼のイギリス的な個人主義とは合わなかったのだろう。

しかしケインズにとっては、新古典派経済学も、複雑な経済を単純化しすぎていると思われた。現実には、労働需要と供給の不均衡による失業は日常的に起きており、いくら時間がたっても均衡することはない。またアダム・スミスの時代に比べれば、政策金利などによって政府が市場をコントロールする手段も整ってきた。大蔵省の官僚でもあったケインズにとって、目の前の不均衡に対して「市場にゆだねよ」としかいえない経済学は、物足りなかった。

ケインズが「自由放任」を批判したのは巧みなレトリックだった。実際には当時のイギリスで、政府が何もするなという意味での自由放任(レセ・フェール)を主張した経済学者はいなかったのだが、「古典派経済学」がそのようなナンセンスな主張だと決めつけることによって、一定の政府の介入は必要だという(一般論としては正しい)ケインズの主張は、強い説得力をもつことになった。

このようにケインズは、従来の経済学を修正し、政府が介入する根拠を見出すという結論を最初から想定して理論を組み立てたので、その内容は論理的にはかなり無理のあるものだった。とくに一九三〇年に出版された『貨幣論』は、書かれたのが大恐慌の前だったこともあり、『貨幣論』でケインズが提言した金利の引き下げでは大恐慌を止めることができないことがはっきりしていた。そこで彼は、労働党などが主張しているように失業対策を財政政策によって行なうべきだという考えに傾いていった。

ケインズとの論争
ハイエクはこうしたイギリスの政治的状況に疎かったため、ロビンズの期待にこたえて二回にわけて発表した長文の書評[1931]で、ケインズの『貨幣論』が理論的な矛盾を含んでいると批判した。

ケインズは『貨幣論』で、不況の原因は過少消費なので、金利を引き下げれば貯蓄が減り、消費が増えるので不況から脱却できると主張した。これに対してハイエクは、不況の原因は過少消費ではなく、金融政策でそれを是正することもできないと批判した。実物市場(普通の商品・サービスの市場)を長期的に均衡させるような水準の「自然利子率」を下回った金利を設定しても、それは長期的に維持できないので金融市場を不安定にし、かえって不況を悪化させるというのだ。

『貨幣論』は、集計量で経済を分析する「マクロ経済学」の手法を初めて取り入れたものだが、国民所得や消費や貯蓄などのマクロ変数は、数千万人の行動の集計にすぎない。そういう集計量に相関関係があったとしても、因果関係については何もいえないというのは統計学の初歩である――ハイエクはこのようにケインズを批判した。

ケインズはこの批判には直接反論せず、その代わりハイエクの新著『価格と生産』を批判した。ハイエクはのちに「ケインズが私の書評の第二回をほとんど読まないで、『あの本[貨幣論]で書いたことを私はもう信じていない』と言ったのにはがっかりした」と回想している[1978: 284]。このあと、ハイエクは二度とケインズの著作を公の場で批判することはなかった。

このエピソードは、よくも悪くもケインズが政治家であり、ハイエクが学者だったことを示している。失業者がいるとき、政府が公共事業で彼らを雇用すれば失業者が減るのは、経済理論を使わなくてもわかる自明の理である。問題は、公共事業にどの程度の効果があるのか、そして公共事業による財政赤字をどうするのか、ということだったのだ。

最初の問題については、一九三一年にリチャード・カーンが「乗数効果」の理論を発表した。これは、たとえば政府が公共事業に一億ポンド支出し、それを受け取った労働者が六割を消費に回すとすると、さらに六〇〇〇万ポンド増え、それを売った商店主がその売り上げの六割を消費に回すと六〇〇〇×〇・六=三六〇〇万ポンド増え……というように、最終的には二・五億ポンドの有効需要が創出されるというものだ(*)。財政赤字については、景気対策によって国民所得が増えれば税収が増え、結果的には財政赤字も解消できるとされた。

しかし当時の経済学者の多くは、そんなことは起こりえないと主張した。投資需要が一定だとすると、政府が投資したぶんだけ民間の投資が減るので、雇用は創出されない。かりに雇用が一時的に増えたとしても、公共事業をやめたら元に戻ってしまい、財政赤字だけが残る。

どちらの立場も理論的にはありうるので、どちらが正しいかは、やってみなければわからない。そしてアメリカのルーズベルト大統領が一九三〇年代にとったニューディール政策は、ケインズ政策にもとづく公共事業によって雇用を増やし、景気を回復させたようにみえたため、ケインズの理論は大きな影響をもつようになった。

パンフレットとしての『一般理論』
ケインズの主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』(一九三六年)は、だれでもその名を知っているが、だれも読んだことがないという意味で、古典の代表である。私が学生のころは、塩野谷九十九訳の古い非常に高価な訳本しかなかったので、丸善で売っていた安い原著を読んだが、さっぱりわからなかった(新しい岩波文庫版は原著よりわかりにくい)。

教科書に書いてあるマクロ経済学では、IS曲線とLM曲線の交点でマクロ的な均衡が決まることになっているが、『一般理論』にはそういう図式はどこにもなく、哲学や心理学の話が延々と書かれていて面食らう。大恐慌のさなかに政策提言としてバタバタと書かれたので、議論が未整理で、余談や重複が多い。

ケインズは『一般理論』の冒頭で、「古典派経済学」は市場が均衡する特殊な場合の理論だが、自分の理論は不均衡の場合も含む一般理論なのだと宣言する。しかし、彼が提示した理論は、古典派理論の論理的な一般化になっておらず、まったく別の国民所得統計を使ったものだ。

こうしたマクロ経済学の手法は、すでに『貨幣論』で導入されていたもので、『一般理論』は新しい理論的枠組みを提示したわけではない。しかも『貨幣論』では、金融政策(金利の引き下げ)によって不況は克服できると書かれていたのに、同じ道具を使った『一般理論』では、金利の引き下げは効果がないと主張する。

金利を引き下げても、金利生活者が過度にリスクを恐れて現金を保有する「流動性選好」があるから、長期金利は下がらないというのだ。したがって政府が公共事業などによって有効需要を創出する必要がある、というのが『一般理論』の論理構成だ。

ケインズは古典派が間違っている例として、名目賃金の下方硬直性や金融市場の不完全性など、いろいろな不完全性を挙げている。こうした不均衡が生じている場合、普通の経済学では価格によって不均衡は調整されると考える。たとえば失業が起こっている(労働が超過供給になっている)とすれば、長期的には賃金は下がり、労働需要が増えて均衡が回復するはずだ。

ところが、そういう調整が行なわれない不均衡状態が、実際には一〇年も続いた。だからケインズの指摘は正しいのだが、なぜ不均衡が続くのかという肝心の問題には、ケインズは答えていない。

むしろ『一般理論』は、新古典派理論が成立しない特殊な条件を挙げ、その結果として不均衡が生じると論じる「特殊理論」と考えたほうがよい。たしかに『一般理論』は、一九三〇年代の状況の記述としては見事だが、その奇妙な結論は仮定に含まれているのだ。これをケインズが新古典派を特殊な場合として含む「一般理論」と誇称したことが、後世の誤解のもとになった。

要するにケインズは、政府の介入が必要だという結論を最初に決め、それに合わせて理論を考えたのである。理論とは、往々にしてそういうものだ。『一般理論』のなかの「大蔵省が古い瓶に紙幣を詰めて廃鉱に埋め、それを掘り出す事業を作り出せば、失業はなくなるだろう」という有名な冗談は、後世に大きな悪影響を与え、公共事業はその内容ではなく規模によって評価される習慣が戦後長く続いた。

ハイエクは政府が市場を攪乱すべきではないと論じたが、ケインズは目の前の問題を解決する手段があるとき、それを使わないのは政策当局の怠慢だと考えた。これは経済問題をどれほど辛抱強く考えるか、という社会哲学の違いかもしれない。ハイエクにとっては、市場の問題は長期的には市場が解決するはずだが、ケインズにとっては「長期的にはみんな死んでしまう」のだ。

『一般理論』を発刊当時に批判しなかったハイエクは、のちにそのことを後悔して、『一般理論』は経済学的な一般理論ではなく、財政政策を正当化するために書かれた「時事論説」だったと述べている。しかし、それはケインズにとっては本望だろう。ケインズは師マーシャルの追悼文で、経済学の役割は、そのときの経済情勢に合わせた政策をパンフレットで提言することだと書いている。

経済学者たちは、四つ折り版の栄誉をひとりアダム・スミスだけに任せなければならない。その日の出来事をつかみとり、パンフレットを風に吹き飛ばし、つねに時間の相の下にものを書いて、たとえ不朽の名声に達することがあるにしても、それは偶然によるものでなければならない。

ケインズは大蔵省の官僚でもあり、賢明なエリートが社会を導くべきで、それは可能だという信念をもっていた。『一般理論』は、彼の政策提言が古い理論を信じている経済学者には理解できない革命的な新理論にもとづくものだという権威づけのための政治的パンフレットだったのである。

一方で、ハイエクにとって市場経済は自律的に動くシステムであり、政府が自由に市場をあやつることは幻想でしかなかった。そしてハイエクは、大恐慌に対して有効な処方箋を書くことができなかった。論争はケインズの圧倒的な勝利に終わり、ケインズの理論は「新しい経済学」として第二次大戦後、広く受け入れられるようになった。他方、ハイエクが一九四一年に出版した『資本の純粋理論』は、彼自身も認めるように不完全なものだったため、批判を浴び、彼はこれを最後に狭義の経済学の研究から身を引いた。

不確実性の思想
一九七〇年代になると、因果関係のはっきりしない集計量にもとづくケインズ経済学を批判し、経済を個人に分解し、その「合理的期待」にもとづく行動の集計として経済成長や景気循環を定式化する「新しい古典派」と呼ばれる学派が登場した。彼らはケインズを完全に否定し、マクロ経済学とミクロ経済学の区別もなくした。経済は、永遠に生きて未来を完全に予想する超合理的な「代表的個人」による計画経済のようなものと想定された。

彼らのケインズ批判のポイントは、ハイエクの指摘と同じだ。ケインズの理論には、集計量の動きを説明する「ミクロ的基礎」がなく、なぜそうなるのかは合理的個人の行動から説明がつかない。マクロ経済学は非科学的な結果論にすぎない。長期的には、政府が市場に影響を与えることは不可能であり、最善の政策は何もしないことだ――こう主張する合理的期待派の結論は、奇妙なほどハイエクに似ている。共通しているのは、ハイエク以来の市場経済への信頼と政府への不信である。

しかしハイエクと合理的期待派の間には、根本的な違いがある。ハイエクは、個人が合理的に行動することも完全な情報をもつこともありえないと考えた。そして、不完全な知識しかもたないがゆえに不確実性をともなう個人の行動をコーディネートするしくみとして市場をとらえた。この点では、じつは彼の意見はケインズと一致していた。ケインズは『一般理論』のエッセンスをまとめた論文[1937]で、均衡理論的な解釈を拒否し、自分の理論でもっとも重要なテーマは「不確実性」だと述べた。

[古典派経済学では]事実や期待は、いつでもはっきり計算できる形で与えられていると仮定されている。リスクがあることは認められているものの、大した注意は払わず、正確に計算できると想定されている。確率論は、暗黙のうちにではあるが、不確実性を確実性と同じように計算可能な状態に帰着できると想定している。[中略]しかし現実には、人は行動のもっとも直接的な結果以外には、基本的にはごく曖昧な見通ししかもっていない。このため将来についての知識がゆらぎ、曖昧で不確実だという事実によって、資産価値はとくに不安定になり、古典派経済理論の方法では扱えなくなる。

このように書いてケインズは、ルーレットのように計算可能な確率は本質的な不確実性ではなく、たとえば欧州で戦争が起こるかどうかといった問題が不確実なのだとのべている。こうした状況では、人々の予想そのものを金利で均衡させることはできない。「予想の市場」というものはないからだ。

その代用として金融市場があるが、大恐慌のときのように人々が極端にリスク回避的になっていると、彼らは金利に反応しないで市場の予想が正しいと考え、多くの人々の予想に合わせようとする。このとき多くの人々が悲観的だと、それに合わせて悲観的な予想をする人の予想が当たるから、金利と無関係に悲観的な予想が広がり、人々は安全な現金を保有するので投資資金が供給されない。

このようにしてケインズは、計算不可能な不確実性を経済分析の中心に置いた。それはケインズが一九二一年に書いた『確率論』以来の哲学だが、同じ年にオーストリア学派の経済学者フランク・ナイト[1921]は、計算可能なリスクと計算不可能な不確実性を区別し、前者は保険などでヘッジできるテクニカルな問題だが、後者は企業家精神の本質にかかわるとした。

不確実性のもとでの主観的な意思決定を重視するのは、オーストリア学派の伝統であり、のちに紹介するように、ハイエクの中心思想でもある。また功利主義者の「ベンサム的計算」を否定し、とくに将来のリスクを数学的に計算して金利に織り込むと考えるフィッシャー流の金融理論を批判した点で、ケインズとハイエクの考え方は似ていた。

しかし、ケインズがその不確実性を政府によって除去しようとしたのに対して、ハイエクは市場によって不確実性は(長期的には)おのずから調整されると考えた。ここには、同じ戦間期の欧州の抱える不安に直面しながら、それをエリートの指導によって「社会工学」的に解決するか、市場にゆだねて自生的秩序を信頼するか、という方法論の違いがある。
『一般理論』は、あくまでも大恐慌という特殊な時代についての「パンフレット」だった。政府が総需要を管理して景気刺激を行なうのは不完全雇用の状態に対応した特殊な政策であり、これを彼が『一般理論』と名づけたのはミスリーディングだった。なぜなら経済が完全雇用に近い状態で財政的刺激を続けると、インフレが起こるからだ。

ところが戦後のマクロ経済学者は、ケインズ理論によって政府が経済を自由にコントロールできると考えた。これが戦後の慢性的なインフレの原因となったのである。のちにハイエクは、一九四六年に世を去ったケインズが「もし戦後まで生きていたら、彼がもっとも断固たるインフレ・ファイターになったことは間違いありません」と語っている[1978: 287]。ケインズ革命は、ケインズが軽したロシア革命と同じように、長く続きすぎたのである。

(*)これは無限級数の和の公式 1+0.6+0.6×0.6+……=1÷(1-0.6)=2.5

補足と文献はこちら

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第8章 自由な社会のルール

ハイエクの『法と立法と自由』は、第一巻[1973]、第二巻[1976]、第三巻[1979]にわけて出版された。この最後の大著の大半を占めているのは、自由な社会を実現するためにはどういうルールが必要か、という法哲学的な議論である。自生的秩序を「自由放任のままで発生する秩序」と考えると、ルールの設計という考え方は、自生的秩序という概念に反するようにみえる。しかし実際には、何のルールもないところに秩序が発生することはありえないのである。

自然界でも、分子や細胞が自発的に形態形成を行なう「自己組織化」が起こるのは、きわめて特殊な条件のもとで、分子が一様に分布しているときに限られる。経済システムでも、社会主義国で国営企業の民営化が失敗した最大の原因は、七〇年以上も市場経済を知らなかった人々に、「約束は守る」とか「他人のものは盗まない」などの常識が共有されていなかったからだ。

この場合のルールは、明文で書かれた法律とは限らない。むしろ暗黙のルールのほうが多い。あなたが文房具屋でペンを買うとき、何も言わないでペンを店員に渡し、お金を払ってそのペンを受け取るだけで、ペンの所有権を一定の価格で文房具屋からあなたに移転する契約が結ばれ、決済される。このように自然な形で契約が履行されるためには、子どものころからの教育や不正に対する処罰など、無数のルールが必要なのである。

慣習法と実定法
日本の法律家や官庁の主流となっている考え方によれば、法律は国家によってつくられる人工の秩序であり、その条文は裁判によって解釈がわかれることのないように、なるべくくわしく明確に記述しなければならない。これはドイツ・フランスなどの大陸法で主流となっている「実定法主義」(legal positivism)と呼ばれる法思想である(*)。実定法主義においては、法律の正当性の根拠は国家主権にあり、国家は民主主義などの手続きによって主権者たる国民から負託された権力をもつと考えられる。

日本の法律は、明治時代に西洋から輸入されたので、まさに人工的な秩序である。しかし法律の本質を見誤ってはならない。ハイエクは、この問題をポラニーの「分節化」の概念で説明する。分節言語で表現される情報は、本源的な知識のごく一部にすぎない。たとえば、あなたは自分の顔を言語で表現することはできないだろう。音楽の美しさを言語で表現することもできない。楽譜という分節言語で表現したものは、音楽そのものではない。

分節言語を知覚するのは、大脳の「新皮質」と呼ばれる部分だとされている。新皮質は進化の比較的おそい時期(といっても数百万年ぐらい前)に発達したらしく、人類でとくに発達している。しかし脳細胞の大部分は「辺縁系」と呼ばれる古い脳であり、感覚などをつかさどっていると考えられている(実際の機能分担はそれほど明確ではないようだが)。この部分の構造は、人類もネズミもあまり変わらない。

法律も、最初から意識的につくられた秩序ではなく、長い歴史のなかで積み重ねられた慣習を条文にしたものだ。定住生活のなかで経済が発展すると、小集団を超えた国家ができ、長期的関係が希薄になるので、部族的感情や「村八分」のような掟の有効性は低下する。こういう場合には、広域的な法が必要になる。

こうした法は、ハムラビ法典、コーラン、律令制度など古くから非西欧社会にもあったが、その多くは中央集権的な国家によって広い地域を軍事的に統治する支配のルールであった。一方で、西欧の法は、市民の契約を保全する「私法」として成立した。市民法の起源とされるローマ法も、最初から立法府が制定したものではなく、ローマ市民の契約についてのルールを文書にし、六世紀にユスティニアヌス帝によって「ローマ法大全」としてまとめられたものだ。

また他の文明圏では、法が王権や宗教的教義と一体になり、しばしば恣意的に解釈・運用されるのに対し、近代西欧では法は主権国家の憲法のもとに実定法として体系化され、司法機関が独立し、他の政治的・精神的権威から独立した「法の支配」が成立している。

こうした西欧の法の起源については諸説あるが、有力なのは、一一世紀以降の西方キリスト教会でつくられた教会法に求める説だ。もともと西欧には部族的なゲルマン法があったが、キリスト教が部族を超えた普遍的なルールを広め、特定の地域や領主に依存しない中立的な法の概念を成立させた。

ハンス・ケルゼンに代表される実定法主義は、大陸の市民法を法律の完成された形と考え、すべての価値から中立な「純粋法学」を構築しようとした。ケルゼンによれば、法的な規範を伝統や慣習などの事実から導こうとするのは、科学的な法則が自然に内在し、その法則を人間が発見すると考える形而上学と同じである。人間の主観なしにどのような法則も存在しないように、どのような法もそれを制定する立法者の意志なしには存在しない。

したがって法の正統性の根拠は、伝統や自然権にあるのではなく、法の制定手続きの論理整合性にある。数学の命題の真偽が特定の物理的実在と対応するかどうかで決まらないように、法の正統性もそれを制定する国家の目的には依存しないのである。

しかしこの考え方は、法が市民の合意から生まれ、部族法を統合することによって国家的な法の支配が成立した過程を転倒し、結果の側から法の基礎を正当化するものだ。ハイエクは、このような実定法主義を激しく批判する。

専横的な政府の新しい前進に対して、法を守る者を無防備にしたのは、実定法主義だった。あらゆる国家は法治国家だという法の定義を受け入れるよう説得されてしまった後では、ケルゼンがのちに「法科学の見地からすれば、ナチ政府のもとでの法も法であった。それは残念なことかもしれないが、それが法であったことは否定できない」と主張して同意した見解にもとづいて行動するしかなかったのである。[1976: 55-56]

法が数学の定理のように、具体的内容に無関係な形式だとすれば、こういう結論は避けられない。事実、ケルゼンの実定法主義は社会主義国で公認の法哲学となった。いかに人権を抑圧し、いかに非効率な経済運営が行なわれようと、実定法主義では法体系の整合性は保たれているからである。

日本の法学界でも実定法主義が主流である。日本の法律はドイツやフランスよりも厳密に整合性を重視する。官僚が実質的に立法を行ない、内閣法制局が法の整合性をチェックして、同一の用語を別の法律で定義することを許さず、既存の法律で定められている事項を新たな法律で定めることも許さない。そのため法律が複雑に相互依存しており、制度改革を困難にしている。

法体系と近代化のタイプ
法(law)という英語は意味が広く、自然法則という意味で使われることもあれば慣習的な暗黙のルールをさすこともあり、狭義の成文法はlegislation とかstatute と呼んで区別する。ハイエクは両者を区別するため、慣習法をノモス、成文法をテシスというギリシャ語で呼んだ。

英米法の伝統では、慣習や判例の積み重ねのうえに成文法があると考える。とくにイギリスでは、すべての法の基礎にある慣習法は、憲法のような重要な役割を果たすが、どこにも書かれていない。裁判で「この法律は慣習法に反する」といった判決が下されることがあるが、具体的にどういう慣習法にふれるのかは示されない。

この場合の慣習法は「常識」という意味に近く、時代とともに変わる。テシスはノモスの上につくられる第二次的な秩序であって、その正当性は歴史的に積み重ねられてきた判例や慣習によって保証される。法体制の進化も、法の不備な点を判例で補い、判例を積み重ねた結果、確立した判例を取り入れて法を改正するという順序で行なわれることが多い。

さらにアメリカは、もともと主権国家の連邦という形でスタートしたため、各州ごとに法律はばらばらで、当初の連邦政府は州際業務を調整する限定された機能しかなく、徴税権さえなかった。しかし州際取引が増えるにつれて、各州法の矛盾が顕在化し、州政府が勝手に通貨を発行したり「徳政令」を出したりするケースが増えて、混乱が生じた。

一七七九年に制定された合衆国憲法は、こうした各州の法律の矛盾を調整するルールとして制定されたものだ。したがってそれは成文憲法としては最古のもので、もともとばらばらの州法を調整する法律だった。そして法と法の矛盾を解釈するのは裁判所しかないため、結果的に司法権の力が強くなったのである。

だから英米の国家システムを、モンテスキューの「三権分立」の概念で説明するのは誤りだ、とハイエクは指摘している。これらの国々では、法律が慣習法のパッチワークとして徐々に形成され、その解釈基準として実定法ができたので、立法と司法が分離し、またアメリカでは行政はもともと各州にわかれていたので、結果的に三権が分立するシステムができたのだ。

他方、ナポレオン法典に代表される大陸の市民法では、法律は第一義的には議会によって制定され、官僚機構によって施行される実定法で、ルールは条文でできるかぎりくわしく決め、政令など細かい施行規則まで行政が決める。慣習や前例は無視され、裁判官が法律を恣意的に解釈する余地のないように、実定法のなかで完結した法体系になっている。

だから原則は三権分立だが、議会の機能は国民の代表者として法を採択する狭義の立法機能に限られており、法の立案や起草は実質的には官僚によって行なわれる。司法の機能も、実定法を解釈することに限られ、法令審査のような機能は想定されていない。

この違いは、イギリスでは一三世紀ごろから慣習法が各地方の法廷で判例として定着し、国王による権力の濫用(とくに課税)の歯止めとなっていたのに対し、フランスやドイツでは領邦の争いが絶えず、統一国家の成立が遅れたことに原因があるといわれている。

フランスでは一八世紀末に、近代国家がフランス革命によって暴力的に建設されたため、従来の慣習法はすべて貴族の「封建的特権」として廃止され、慣習法を上書きする形で中央集権的な実定法が制定された。ドイツでも、近代法ができたのは一八世紀のプロイセン王国が最初だが、領邦の分立は続き、統一国家の形成は遅れた。

最近アンドレイ・シュライファーなどハーバード大学を中心とする調査チームが行なった大規模な実証研究によれば、全世界の四九カ国の法体系と経済成長率を比べると、英米法型の国(とその旧植民地)のほうが大陸法型の国より有意に高い。有意な差が生じた原因は、英米型のほうが規制が少なく、権限が官僚に集中していないため腐敗が少なく、国家体制が分権的であるため相互のチェックがききやすい、といった点に求められる。

ただ、たとえば大陸法型の日本の成長率が戦後きわめて高かったように、法制度の効率は発展段階にも依存するので、英米法と大陸法のどちらがすぐれているのかは一律にはいえない。ハイエク自身も、テシスは劣っているといったのではなく、企業や政府のように一定の目的のもとに組織される小集団の秩序であり、そういう領域では意味をもつとのべている。新古典派経済学も、前にのべたように、戦時経済や企業内の資源配分のように、目的が与えられ一定である場合には成立する。

しかし市場が「福祉を最大化する」という目的をもっているかのように想定し、永遠に生きる代表的個人=計画当局が、無限の未来までを正確に予測して、経済を最適成長経路に誘導すると想定するのは、社会全体を擬人化する錯覚である。このような荒唐無稽な仮説によって導かれた理論を、途中の因果関係をごまかして統計的に「検証」する手続きは、ハイエクがフリードマンを批判してのべたように欺瞞的なものだ。

「超大陸法型」の日本法
英米法では、裁判所が実質的に法律をつくるといわれるほど、司法の立法への影響力が強い。日常的な紛争処理もすべて弁護士がやるため、法律家が紛争を作り出しているとの批判もある。また明文化されていない慣習法に依存する前例主義が、司法を保守的にしていると批判されたりもする。国家が分権的なので、意思決定の一貫性や安定性に欠け、行政の決めた規制を議会が否定したり、議会のつくった法律を裁判所が違憲と判断したりすることがしばしば起こり、効率が悪い。

しかしシステムが間違いに強いように設計されているので、軌道修正しやすく、柔軟性が高く、大きな変化に強い。たとえばインターネットが普及しはじめたころ、アメリカの電話会社はデータ通信を独占しようとしたが、FCC(連邦通信委員会)は、電話会社がデータをコントロールすることを禁じた。そのため、いろいろなプロトコルが乱立した結果、どのコンピュータでも読める無料のTCP/IPが普及した。

大陸法の長所と欠点は、この逆だ。すべての権限が行政に集中し、立法も司法も事後的に審査する役割しかないので、遅れて国内統一や近代化を進める国が、国力を総動員するには向いている。大陸法を輸入した日本が近代化に成功し、英米法をベースにしたインドの近代化が遅れたのは、その一例だ。また行政が企業の利害調整を行ない標準化も進めるので、携帯電話の欧州標準GSMのように、それが当たった場合は成功する。しかしISDN(統合デジタル通信網)のように、誤った標準を選んでしまった場合は、欧州全体がその失敗から脱却するのに時間がかかる。

日本の法体系は、大陸法よりもさらに極端な「行政集権」になっている。日本の法整備は明治初期に派遣された岩倉使節団などによって大陸の法体系が輸入されたことに始まる。岩倉のころの視察は、不平等条約改正のためにいろいろな国の制度を勉強するものだったが、一〇年後の伊藤博文の憲法調査になると、プロイセンの国制をまねるための調査という色彩が強まり、ここで明治憲法の骨格が固まった。「憲法は花、行政法は根」という青木周蔵ドイツ大使の言葉が、当時構想された「国のかたち」を象徴している。

伊藤に最大の影響を与えたのは、「行政の肝要な部分は法律では決められない」というプロイセンの法学者ローレンツ・フォン・シュタインの「進化的」国家観だったという。「日々転変」する現実に即応するためには、君主の命令でも議会の立法でもなく、官僚の裁量がもっとも適しているという思想だった。

利用できる資源が少ない「追いつき型近代化」の局面では、大陸法型システムがうまく機能する。乏しい資源を総動員しなければならないからだ。しかし、行政集権的な「開発主義」システムは、経済が成熟すると集権的な調整機能のオーバーヘッドが負担になり、さらに大きな負のショックが発生すると、コンセンサスによる調整では対応できないため、制御不能になってしまう。

日本の法律は、官僚の実感によると、独仏法よりもさらにドグマティック(教条的)な大陸法型だという。ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈の解釈も官僚が決め、処罰も行政処分として執行される。法律は「業法」(建設業法、宅建業法、保険業法……)として、ほとんど同じ内容の膨大な法律が所管省庁ごとに縦割りで作られる。コンピュータのコードでたとえると、銀行の決済システムを「ITゼネコン」が受注し、ほとんど同じ機能のプログラムを銀行ごとに作っているようなものだ。

しかも重複や矛盾をきらい、一つのことを多くの法律で補完的に規定しているため、法律がスパゲティ化しており、一つの法律を変えると膨大な関連法の改正が必要になる。税法改正のときなどは、分厚い法人税法本則や解釈通達集の他に、租税特別措置法の網の目のような改正が必要になるため、税制改正要求では財務省側で一〇以上のパーツを別々に担当する担当官が十数人ずらりと並ぶという。

こういうレガシー・システム(古い環境)を前提にすると、高い記憶力と言語能力をそなえた官僚が法律を作る必要があり、アーキテクチャを変えないで官僚の質が下がると、システム崩壊の危険がある。しかし、法律改正の作業はコンピュータでいえば、オーサリングツールやデバッガで自動化されるような定型的な仕事だ。優秀な官僚のエネルギーの大部分が、老朽化したプログラムの補修に使われている現状は、人的資源の浪費である。

英米法では、立法は各議員に所属する議会スタッフが行なうので、同じような法律が何本も議会に出てくることも多い。相互の調整は議会で行なわれ、過去の法律との矛盾や重複はあまり気にしない。矛盾が明白なときは訴訟が起こされ、裁判所が判断するが、おおむね新しい法律で古い法律を上書きするように解釈されるという。[以下略]

(*)普通これは「法実証主義」と訳されるが、これは慣習法と対立する実定法(positive law)の派生語であり、科学における実証主義とは無関係である。

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第6章の補足と文献

ケインズ理論への批判は、理論的には60年代から始まったが、それが社会的な影響力を持ち始めたのはスタグフレーションが慢性化した70年代だった。特にFriedman(1968)は自然失業率の概念を提唱し、その後の経済学に決定的な影響を与えた。ほぼ同じ内容を、Phelpsが同時期に発表していた。こちらはFriedmanほど大きな社会的影響をもたなかったが、その後のNew Classical Economicsの元祖になった。

大恐慌の原因がケインズのいうような有効需要の不足ではなく、FRBの誤った金融政策であることを膨大なデータをもとにして立証したのが、Friedman-Schwartz(1963)である。学問的には彼らの説が正しいことがコンセンサスで、ケインズ理論は1980年代には学会で発表される論文からは姿を消した。しかし教室では、いまだに初等的な教科書ではIS-LMなどの古い理論や効果の疑わしい「ケインズ政策」が教えられている。

ただ、フリードマン以後の超合理主義的な経済学が実証的に意味のある成果をもたらしたかといえば、これも疑問である。New Classicalの元祖はLucasだが、その後のReal Business CycleとかDynamic General Equilibriumなどの理論では、経済が一人の「代表的個人」によって永遠の未来まで計画されると仮定される。しかしこのように理論モデルが精密化すればするほど、実証データとのフィットは悪くなり、いろいろな「不完全性」をアドホックに持ち込まないと説明できない。

さらに根本的な疑問は、そもそもフリードマンのいうように失業は「期待の裏切り」によって生じるものか、ということだ。彼の恒常所得仮説は、長期的な合理性を拡張して短期的な政府の介入を非効率として斥けるもので、この点では新古典派と共通の土俵の上に立っている。しかしハイエクは、このような「計画的合理性」を否定し、むしろ不均衡状態で価格によって情報を伝達するコーディネーション装置として市場を考えたのである。

ただ、このような不均衡理論は、いろいろな形で提案されてきたが、統一的なモデルにならない。超合理的個人というフィクションを想定し、それに対する不完全性として現実を説明するのは、新古典派の伝統的な戦略であり、計量的な分析にも乗りやすい。アカデミズムで出世するためにも、そういう教科書的な理論にもとづいて細かい応用問題を解いたほうが学会誌に載せてもらえる。

ただ最近では、こうしたNew Classicalの「パズルの生産性」も落ちてきたようだ。学界報告などをみても、最近は「一般均衡」が姿を消し、実験経済学や行動経済学が増えた。こういう研究はアドホックではあるが、自然科学の実証主義にもとづいている強みがある。しかしこうした非合理的な行動が、全体としてどのような経済的効果をもたらすのか、という点はまだはっきりしない。この点で、Vernon SmithPhelpsが、いわば「一般不完全性理論」としてハイエクに注目しているのはおもしろい。

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Prices and Production and Other Works

592ページの本が丸ごとPDFファイルでウェブに出ている。

ハイエクの経済学の論文はほとんど忘れられているが、昨今のアメリカの状況を考えるには、少なくともケインズの『一般理論』より役に立つ。

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